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設立の背景と意義

各地区では、昭和28年(1953)を筆頭に30年代〜40年代にそれぞれ組合が設立され、経済成長と共に活発な活動をしてきた。そういうなかで、兵庫県の伝統ある地場産業としての製革業がより健全な発展を期するためには、企業の自助努力と共に指導団体・行政機関とが一体となって皮革産業振興対策事業の実施が必要であるとの機運が盛り上がった。県下の業界の一体化を図り、厳しい経済環境に対し、産地振興事業を実施し経済基盤を強化することを目的に昭和55年5月26日「兵庫県皮革産業協同組合連合会」が発足した。

・ 姫路白鞣革は貴重な技術文化
・ はりまの革なめしその中心は姫路
・ 皮なめし発祥の地
・ 史料に見る皮革産地・播磨 古代では馬革を生産
・ 太閤井戸の由来、そして姫路土産に革を献進
・ 播州の製革業------江戸時代
・ 藩財政を支えた製革業
・ 特徴ある製革方法
・ その他の産地の革生産の始まり 龍野地方・川西地方
● 姫路白鞣革は貴重な技術文化

 人類が最初に身につけた衣服は、恐らく動物の皮であったと思われる。

それは獲物である動物から剥皮し、単に干したり揉んだりするだけで得られる天然の織物であった。四季の変化に耐え極寒の地に住んだり、氷河時代を乗り越えられたのも毛皮という優れた防寒衣の活用を知っていたからである。皮なめしは、人類が最初に手がけた化学工業といってよいのである。

 歴史的にみて、わが国に伝わる最も代表的な皮鞣方法は甲州印伝に用いられる脳漿裸(鹿革)と姫路白鞣革(牛革)に集約される。白鞣革は植物油鞣の一種であり、世界的にみても、今日まで伝えられているという意味において極めて貴重な存在である。

 兵庫県の皮革産業の歩みを考える時、古くは播州なめしと称された、この姫路革の歴史があったことによって現代の製革産業があるといわなければならない。

● はりまの革なめしその中心は姫路

 播磨地方で古くから製革業が行われていたことは、平安時代末期の法令集「延喜式」の中で確認できるが、その産地が播磨のどこであったかは現在のところ解明されていない。しかし中世以降では、その生産の中心地は姫路地区であったと考えてよさそうである。その頃「播磨の革工能く熟皮(なめしがわ)を物しその品争いて当時の武士に求められる」といわれた。

 姫路の高木地区はその生産の中心地であって、白鞣革を産出していた。 これは原料の皮を川水に漬け、毛根部に発生するバクテリアの酵素の力で脱毛し、塩と菜種油を用いつつ揉み上げ、天日に晒して薄乳白色の革に仕上げるもので、この技法は江戸中期には完成していたものと察せられる。

 姫路はわが国の皮革のふるさととして著名である。その発祥の地が、市川の上流約10kmのところにある高木地区である。この地でなぜ古くから皮なめしが行われてきたのか、という理由ははっきりしていない。皮革産業としての地域の育成が藩の政策としても強く行われたようである。

(1) 皮なめしをするのにふさわしい市川という穏やかな流水と、広い河原があった。
(2) 西日本では多くの牛が飼われていたので、原料である牛皮の集荷が容易であった。
(3) 瀬戸内海気候の特長として、比較的温暖で雨も少なめの土地であった。天日に干す革晒しに好都合であった。
(4) 皮の保存とか処理に必要な塩の入手も容易であった。
(5) 大阪・京都など政治・経済・消費の中心地と近い関係にあった。

● 皮なめしの発祥の地

 姫路の白鞣革は古くは越靼(こしなめし)、古志靼、播州靼あるいは姫路鞣ともいわれてきたが、その製革技術の始まりについてはいくつかの言い伝えがある。集約すると3つになろう。

(1) 朝鮮伝来説
 地元では最もよく知られているもので、神功皇后三韓征伐の折の捕虜で熱皮術に長けるものがあり、但馬の円山川で試み、南下して市川で成功し、村人にその技術を伝えたものという。

(2) 聖(ひじり)翁授説
 その昔、松ケ瀬(高木の古称という)の椋の巨木の下に住む博識の老人より学び、製革を始めたという。この老人を聖翁と尊称し、それが地区で祀っている聖神社の祭神といわれる。

(3) 出雲国由来伝説
 製革の起源を神功皇后時代にあると認める一方で、元禄時代出雲国古志村の革商が大阪木津川で試みたが成功せず、市川で良品を得て、越革として世に出して名声をなしたという。

 実際にはこれらの伝説が混合したような形で語り伝えられているが、それらを裏付ける具体的な史料は見られないようである。一方、製革技術史的に考えると、現在の手法がそのまま昔からあったとはいえないので、むしろ数百年間の技術的変遷と桔びつけることによってその伝説が意味を持ってくるものと推察している。


* 高ノ木神社に合祀されている聖神社
● 史料に見る皮革産地・播磨 古代では馬革を生産

 牛革のように、動物皮の中でも大型で硬質繊維の皮の加工技術は、鹿革に代表される中小動物皮のそれよりも歴史的には後世に始まったものと考えられる。つまり鹿革は最も古くから作られたものであり、牛馬革の加工の始まりは、例えば日本書紀の仁賢紀にあるような製革技術者須流枳(するき)の渡来に深く結びついているのではないかと思っている。皮革生産地として播磨の国名が史料に初めて出るのは延長5年(927)に完成した廷喜式である。同式の民部(下)の交易雑物の頃には各種皮革の産地として伊賀・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・近江・美濃・信濃・上野・陸奥・出羽・越前・加賀・能登・越中・越後・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・石見・播磨・美作・備前・備中・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予・紀伊・太宰府の43か国があがっている。この内最も多いのは鹿皮類35か国、牛皮類として特定できるのが14か国(国数は種類枚に数えている)で、ほかにも革種がある。この他「諸国進馬革」では尾張・近江・美濃・但馬・播磨・阿波の6か国があって合計100枚の貢進をしており、その内播磨は32枚を占め最大の産地となっている。また、鹿革では三河・武蔵・上野の各60枚に次いで、播磨は伊予と並んで50枚を産している。播磨は牛革類の産地としては名は出ていない。

 当時の皮革の用途としては、祭礼用のほか、鞍・馬具・甲冑・履・筈(はこ)・敷物・衣料・腰帯・刀剣・弓道具・紐・装飾品・吹皮(ふきかわ:ふいごの皮)などであった。

 高木地区で早くから製革業のあった証の一つとして、よく引用されるのは播磨風土記の飾磨郡小川村の項である。


・・・・・・故号私里。・・・・・・改為小川里。・・・・・・所以称高瀬者、品太天皇、登於夢前丘、樹而望見者、北方有白色物。勅云、彼何物乎。即遺舎人上野国麻奈毘古令察之。申云、自高処流落水、是也。即号高瀬村。


 この文中の白色物は熟革を日晒にしているのを指すという説、そういう理解は不適当とする説、疑問視する説など様々であるが、市川の流れの変遷や地形、夢前丘からの遠望の難しさ、品太(応神)天皇の時代に皮革生産を忌避する思想もなかったこと、さらに遠望して白く見えるほど大量の皮革生産が当時の社会で行われていたとは考えられないなどの理由から、この風土記と市川流域の皮革生産を安易に結びつけることには賛成できない。


* 姫路白鞣革の天日晒 昭44年
● 太閤井戸の由来、そして姫路土産に革を献進

 いずれにしても、播磨の皮革生産は室町時代においては極めて盛んであった。さらに豊臣時代になると、姫路と皮革を結びつける話がかなり出てきて、当時の生産と技術のレベルの高さを示すようになる。例えば次のようなエピソードが残っている。当時織田家の家臣羽柴筑前守秀吉が天正年間、主君信長より姫路城の増築を命ぜられた。当時姫路城主であった黒田官兵衛より領地もろとも姫路城を譲り受け、普請奉行の黒田官兵衛と浅野弥兵衛に申し付け、城の改築に着手した。そして、天正8年(1580)9月中句に軍事訓練のかたわら、稔りの秋を視察しつつ高木村の亀山に登り陣を敷いた。この亀山(現在の前山)の頂上の「城田の天」という場所は現在の花田保育所の上にあり、今もその名前で言い伝えられている。

 筑前守が高木村に立ち寄った際、老婆が一枚の革を献上したところ大変喜ばれ、そのお礼として要望により井戸を掘ったという。この井戸は太閤井戸として尊ばれ、どんな渇水の時でも湧き出たという言い伝えがある。

 筑前守はまた、武具の修理に姫路革を試用した処、その耐久力と美しさは他に比類なく、特産物を姫路城改築祝いと年賀の贈り物として、翌天正9年(1581)年12月12目に信長に播州土産として滑革200枚などを献上したとか、室革文庫1,000個とか鞍蓋馬1,000疋を贈ったとかいわれている。

 この当時、皮革は武具調達の面からは特に重要な資材であったことからかなりの地域に姫路の革工が分散している。例えば、姫路一帯の領主であった黒田長政が関ケ原合戦の戦功によって、筑前国を与えられて移封したとき、その地に高木村を作り、旧所領の「皮づくり」たちを招聘したという。慶長10年(1605)代に福岡県早良郡に孫左衛門らが、加賀藩には同11年播磨屋左衛門五郎が招かれている。

 この外鳥取藩へ元和3年に行ったといわれているし、あるいは川西とか伊勢方面にも製革技術者が姫路から移住したという話が残っている。これらはいずれも姫路の優れた製革技術者を各藩が求めたことの証といえよう。

 また、江戸時代の史料にもしばしば見られる。享徳3年(1454)の鎌倉年中行事に「播磨皮の白き力革」、桂川地蔵記の「播唐力革」、和漢三才図会には室津靼(鞣)革、寛延2年の播磨細見図付載土産名物には姫路靼煙草入、毛吹草には室滑、同枕、馬皮などの文字が見える。装剣奇賞には「播州姫路にて製す。5色あり、いずれも一葉の葵と散桜の極印あり、大きさ1尺3寸に7寸5分あり。紅革のものは此中にて高値なり」とある。

 このように姫路白鞣革は量質ともに各時代を通して代表的な皮革であり、その当時最も典型的な製法であった。

● 播州の製革業------江戸時代

 徳川中期以降の全国的な商品経済の発展に支えられて、皮革業もまた全国的な商品流通の中に組み入れられ、その発展を遂げつつあった。

 皮革産業沿革史(上)によると、播州地方の製革業について次のように述べている。

 当時、播州姫路の「白鞣革」やその「革細工物」は全国的な需要をもつ商品となり、姫路、大阪、江戸、尾張等の商人の手を通じて全国に販売されていた。これらの商品には、主に武具、文庫、袋物があり、他の足駄(高い歯の下駄)の花緒、向掛(つまがけ、またはつまかわ。正しくは爪革と書く。下駄の先のカバー)などがあり、また加工原料としての「白担革」はそのままの形で多くの市場をもっていた。

 姫路藩における近世の皮革業は、すでに地域的な分業が行われていた。もちろん、これは封建社会の身分制支配と深いつながりをもっていたことはいうまでもない。それは近世の身分制が確立される時期に、領主の権力で「上から」設置されたものが、やがて商品経済の発展につれて明確な分業地域として定着したと思われる。鞣製部門は、姫路の東側を流れる市川流域をはじめ、姫路の西側を流れる揖保川流域に沿った地域に、そして加工部門は姫路城下町の中二階町から東二階町にかけて展開された。

 前者の鞣製部門は、いわゆる「白靼革」の製革であって、市川流域の飾磨郡高木村、四郷村をはじめ、揖保川流域の揖保郡沢田、仙正、松原などで行われた。中でも高木村は「白靼革」製革の中心地であり、その製品は他村のものに比べてはるかに優れていた。製革技術の未発連な当時の段階では、自然的条件が生産を左右する大きな原因となったのは当然であったが、高木村が「白靼革」の製革中心地であったのは、市川の水質とその他の自然条件に恵まれていたからである。

 後者の加工部門は、箱類、文庫類、武具、馬具類、稽古道具類などの製造が、主として城下町の中二階町から東二階町にかけて、軒並に行われていた。そのため、当時参勤交代の西国大名は、皮革特有の臭気のためにこの辺をよけて通ったといわれている。これらの店の中には、一軒で十数藩の大名を相手に商売するものもあったほどである。

 ところで、城下町以外の在郷でも「革細工」が行われていた。すなわち、当時の西国大名が参勤交代の折に拠点とした室津(播磨灘に面した小港)は、これらの武士を相手とする土産品として、主に煙草入れ、向掛(つまがけ)、花緒などの製造販売の店舗が軒を並べ、更に、江戸、尾張、大阪との取引も多く、隆盛を極めたといわれている。この室津では、主に揖保川流域の仙正、沢田、松原、龍野などで造られた牛革が用いられていた。また先の市川流域の御着、四郷村上鈴などでは、高木村の白靼革はど上質ではなかったが「張木地」と称して、花緒や伊勢合羽が作られ、街道筋で売られたという。

 亨保16年(1731)11月、前橋城主となった酒井忠恭は、天和以来ようやく窮乏化した酒井家の財政整理と復興を計るために、特に幕府に請願して姫路移封を実現しようとした。この願いは幕府の許可するところとなり、寛延2年(1749)1月、播磨国神東、神西、加東、加西、飾東、飾西、加古、印南、揖東、揖西10郡のうち、15万石を与えられて姫路城主となった。しかし、その後の相次ぐ水害のため、彼の意図も空しく、姫路藩の財政は窮乏をきたした。

 この藩財政窮乏は家臣団に対する5割の「上げ米」となって転嫁されたが、それは藩財政支出の5分の1にも当らぬほどのものであった。そして「藩幣日に竭き」、藩主の公的な勤めすら行き届かず、一族の協力をもってしても、藩主父子の生計費、諸客の接待費など、わずかに3万5千俵余を充てるのに苦心するといった有り様であった。そこで、藩は更に用達商人や領内有志に対して、「積金」=御用金を命じて危機を回避しようとしたが、江戸、大阪の商人からの負債の利子に追われ、新たに高利で臨時の借入れをするに至り、利子は雪だるま式に増大し、ますます藩の財政は危機的な様相を深めるばかりであった。

 領内の百姓町人に対する倹約令の指示などが相次いで出されたが、倹約するだけの余裕もなく、最低の生活を強制されていた民衆にとっては、ほとんど無意味であった。この問にも文化4年(1807)には、負債総額が73万両に達し、藩財政の危機はその頂点に達したのである。かくして3代目藩主忠道は「日夜慎悩(おうのう)の末」文化5年(1808)12月、家老河井隼之助を江戸より召還し、財政改革を命じ、一切の施策を一任し、ここに姫路藩の政危機に対応する諸政策が展開することになった。

● 藩財政を支えた製革業

 文化6年(1809)からこの改革が行われたが依然として「失費多く、収納は不納多く」財政の窮乏は更に激化した。そこで家臣からの借り米、倹約令の発令が繰り返され、あるいは在方(村方)の大庄屋の大半を廃止し、城外八代村に藩営の絞油業所を創設するなど、文化・文政期にかけて改革が実行されていった。この改革は、当時発展しつつあった皮革業をどのように掌握したであろうか。

 文政3年(1820)2月、姫路中二階町の革細工物職人21人の連名で、革細工物を他所、他町で売りさばくこと、他所物を姫略で売りさばくことを差止めてほしいという意味の歎願書の提出を受理して、連名人たちを保護することとした。

 連名人を保護した藩は「革会所を二階町に設けて製品に一々捺印」したという。そして革細工物の生産を奨励したことはいうまでもない。危機に曝された藩財政は、この革細工物に格好の財源を見出したというべきであろう。

 文政7年(1824)8月、藩は飾磨郡高木村に「革会所」を設置し、増尾久太夫(大阪堺の御用商人)、岡部順兵衛、三森麦倉の3人を「革掛り」に任命した。そして製品にはすべて会所の極印を押し、枚数に応じて運上金を賦課したのである。

 こうして、徳川中期以後の全国的な商品経済の発展の波に乗って展開しつつあった姫路藩における皮革業も、鞣製、加工の両面から藩の統制下に組み入れられたのである。藩は進んで皮革業を保護・奨励したが、その製品は一旦藩の「革会所」を通すことなしに処分することは不可能となった。同藩の皮革業は、その原皮を領内「斃(たおれ・へい)牛馬」に限られることなく、大阪商人を通じて原皮が移入され、「白靼革」の生産が行われていたのである。

 白靼革の生産の中心地であった高木村では、全村あげて白靼革の製造に当ったといわれる。

 天保年間、高木村の全耕地面積の63%強に当る田畑14町5反を所有し、他人の土地を踏まずに隣村に行けたほどの大地主であった仁太夫が、高木村の「白靼革」を支配していた。彼は村民から親方、旦那と呼ばれ、城郭のような大邸宅に居住し、大阪の問屋から原皮の供給を受け、船で飾磨郡 四郷村の港に陸揚し、高瀬舟(荷物運搬用の小舟)に積み替えて市川をさかのばり、積荷の到着と同時にそれを村民に割当てて賃加工させたのである。

 こうして賃加工された製品は再び一括されて革会所を通して、大阪の問屋へ送られたといわれている。事実、高木村における「白靼革」の生産者は、まったく大阪商人資本の支配下における賃加工という形で行われた。かくて徳川中期以後の姫路藩における皮革業は、いわゆる「自靼革」を中心に広汎な発展を遂げつつあったが、文化・文政期を区切りとする藩財政の危機を乗切る政策の一つとして、藩の統制下に組入れられるようになった。すでに藩財政の危機過程で大商人と共存関係を結んでいた藩権力が、土地支配者を通じて、そこでの皮革業の展開に対応しながら、利潤を摘みとり、財政緩和の一助にしようとした意図は、先に述べた革会所の設置によって確立されたとみてよいであろう。

 姫路藩における皮革業の大まかな仕組みは、以上の通りであるが、これは姫路藩にのみ限られていたわけではなかった。徳川中期以後の商品経済の発展につれてあらわになった領主財政の窮乏は各藩共通の現象であり、各藩はそれぞれこのような方法で財政建直し策を積極的に行った。このころの皮革業は多かれ少なかれ、こうした政策の財源吸引組織の中に組み入れられていたものとみてよいであろう。

● 特徴ある製革方法

 この製革原料は古代においては馬皮であったようだが、牛耕農業の普及に伴い、中世以降においては牛皮が中心となったようである。大阪市史によれば、文政年間の記述として「元来牛馬皮を晒すは、上方筋にては播州市川に限るを以て、摂州の引請の分は市川附近なる姫路領飾東郡高木村の下職」とあり、大量のなめしが行われ、当時の藩財政に大きく寄与したことが知られている。国産だけでなく、輸入牛原皮もかなり利用されたことも知られている。

 製法について述べた記録は江戸末期までには見当らない。明治以降の研究等で明らかとなっている主な工程をまとめると、川漬・脱毛・裏漉き・施塩・油揉み・乾燥・加湿・乾燥と揉み(数回反復)となる。この手順は、延書式造皮功の前節


牛革一張(長六尺五寸,広五尺五寸,)。除毛一人。除膚肉一人。 浸水潤釋一人。曝涼踏柔四人。


と極めて酷似することに注目したい。即ち、白鞣革の原型はほぼ千年昔には完成していたのである。

 明治前半の大垣家文書には鞣革の種類として沓皮(くつかわ)・和皮靼・朝鮮靼・変女靼・五志靼・馬靼・中物靼・小皮靼があげられているが、製法の特徴から、これは沓革・古志革・および通常革に分けられる。

 大正初めの共栄社の広告からは沓革・綴草(とじかわ)・張生地(はりきじ)・太鼓革もあった。これらはいずれも製造方法が大なり小なり異なっている。張生地は江戸末期の工夫であった。

 このように、姫格白鞣革はわが国が世界的に見ても誇りうる皮なめし技術の一典型であり、江戸末期に至るまで盛業であった。明治以降、生活の洋風化や低い生産性、あるいは新式製革法として植物タンニン鞣やクロム鞣の技術の普及に伴い、次第に衰微してきた。とくに昭和20年以来、高木地区ではクロム鞣革製造一色となり、白靼業者は激減した。その用途も革文庫・武道具や和装用品、野球ボール、小物類などに限られ、姫路特産品にその存在を求めている昨今である。

● その他の産地の革生産の始まり 龍野地方 川西地方

 製革業の始まりについての確たる資料が乏しいのが実情であるが、各地に伝わる話を中心としてとりまとめたい。

〔龍野地方〕
 龍野の松原の場合、昭和31年3月に行われた畜霊祭の祝詞の中で「約400年前の天正時代にへい牛馬の皮をもって太鼓の製造をなし、神社仏閣に納入し、さらに当日の武将の命により大和靴(農業用のはきもの)、馬具、太鼓等も製造していた」という趣旨が述べられている。地元ではこのようにみられているのであろう。

 製革業にかかわりがあるとみられる史料が出てくるのは江戸時代に入ってからである。寛永9年(1632)に和久村の生皮運搬に関するトラブルの記録がある。当時は死牛馬の処理とか死牛馬皮の利用について権利が決められ、場所も定められていた。処理の及ぶ範囲は旦那場とか草場、掃除場、清目場(きよめば)などと称しており、例えば山下・西構・栄・東用・萩原・真砂・河内市場などであった。したがって製革業といっても最初は旦那場単位の死牛馬の処理をこえるものではなかった。しかし18世紀になってくると、原皮を他所から買い入れ、あるいは大坂渡辺村からの馬皮の加工をする形で規模が広まっていったとみられる。

 また、誉地区の場合は、次のように行われていた。江戸後期皮鞣しが盛んであったのは、門前(現在の松原)、広山(現在の誉)であり、寛政から文化中期にかけては鳥取藩内の原皮を仕入れ始めた。文化・文政期はこれら村々の皮革業の全盛期であった。天保期に入ると全国諸藩は皮革用原皮に目を付け、専売制をとったり統制を強化し始め、特定人を通じてでなければ原皮は販売されず、これら諸藩の上層まで話のつけられない揖龍の村々は原皮の入手に行き詰まった。

 明治時代以降は、張生地の製造が矢張り中心となっていた。これは姫路白鞣革の製法と基本的にはほとんど同じであるが、色相はあまり白くなく、硬目のものであった.張生地は漆を塗って製品に仕上げるものが主体であって、室津や姫路に出荷し、たばこ入れ、下駄向皮(げたのつまかわ)、文箱などになった。

 また生革(きがわ)(ビッカー)も作られた。原料は水牛皮で、主として東南アジアから原皮を輸入し、紡績用や剣道の竹刀の鍔(つば)などに加工された。クロム鞣革の技術は昭和の初めに入ってきたという。当時、中嶋治一が大阪の西山へクロム鞣技術を見習にいき、技師となって瀬戸高矩の工場で共同で研究開発したことが松原に広まり、現在に至った。

なお、室津の革細工について、松原地区で集約した記録では次のように記している。

● たばこ入れ
 腰に下げるたばこ入れは、煙筒(キセル)を入れる筒で止める「腰差したばこ入れ」と、根付で止める「提げたばこ入れ」の2種類に大別できる。室津から出荷されていたたばこ入れは、「サゲ」と呼ばれた叺(かます)だけのものと、「井筒組」と呼ばれた革のついたものが主であった。

● 革文庫
 文庫は、書籍その他手回り品なども入れる手箱である。木や紙に漆を塗ったものが古くからあったが、室町時代に皮革業の発達により、革を貼ったものが作られるようになった。

● 向革(爪皮)
 下駄の爪先に掛けて雨水や泥はねを防ぐための覆いで、材料に松原の張生地を多く用いた。江戸末期ごろから世に出はじめ、もとは男子だけが用いた。向皮は関西での呼び名である。その製作工程の簡単さと利益率の良さで、室津では明治・大正・昭和とかけて、その量はたばこ入れを上まわった。

● 金唐革(きんからがわ)
 革に金属箔(主に銀箔)を張り、模様をプレスした上に彩色をほどこしたもので、ヨーロッパで壁や調度品の装飾に使用した。17世紀ごろからオランダを通じて日本に伝えられ、その金色と特異な意匠のために大いに珍重された。輸入品のうえに高価なこともあって、日本では壁に張られたことはほとんどなく、たばこ入れなどの工芸品に使われた。この金唐革の模造品を室津で造っていたという。しかも光沢は本物以上で、張生地に漆を塗り、その上に金箔をはり、更に漆を塗ったものがその金唐革だという。その材料である張生地は1年間で4,000枚内外扱われたが、その内7分は松原より、他3分を袋尻・広山・沢田より納めていた。

 室津革細工所と原皮供給の松原村との問に、必ずここから買うように権力によるルートが設定され、松原の皮革業者にとっても「抜売抜買」がないよう要求していた。


[川西地方](火打)
 詳細な記録はわからないが、地元に伝えられている話として、次のようにまとめられる。

 川西地区では、慶長8年(1603)、徳川家康が宮中参賀に向うにあたり、火打の役人に命じて絆綱(たづな)および鞣革の用達を命じたといわれている。つまりその頃にはかなりの皮なめしを行う人たちがいたものと思われる。また、寛永の頃になって播磨の住人西森某がこの地に来て、製革の有利なることを力説、村民に当業の普及をはかったといわれる。しかし、元禄8年(1695)の記録には、皮革生産はまだ小規模であったという。

 江戸時代末期の元治・慶応の頃、原料は西浜と呼ばれた渡辺村より購入し、綴革(とじかわ)と呼ばれる白鞣革を製造していた。綴革は革紐、鎧 具、刀剣の柄巻、さや巻、剣道具、細工用革、塗革用等に大阪、姫路などに売られた。また革羽織や革袴、草履用等にも白鞣のうすいもの(明バン<竓)を使用して作られていた。原料は馬皮牛皮が主であった。





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