● その他の産地の革生産の始まり 龍野地方 川西地方
製革業の始まりについての確たる資料が乏しいのが実情であるが、各地に伝わる話を中心としてとりまとめたい。
〔龍野地方〕
龍野の松原の場合、昭和31年3月に行われた畜霊祭の祝詞の中で「約400年前の天正時代にへい牛馬の皮をもって太鼓の製造をなし、神社仏閣に納入し、さらに当日の武将の命により大和靴(農業用のはきもの)、馬具、太鼓等も製造していた」という趣旨が述べられている。地元ではこのようにみられているのであろう。
製革業にかかわりがあるとみられる史料が出てくるのは江戸時代に入ってからである。寛永9年(1632)に和久村の生皮運搬に関するトラブルの記録がある。当時は死牛馬の処理とか死牛馬皮の利用について権利が決められ、場所も定められていた。処理の及ぶ範囲は旦那場とか草場、掃除場、清目場(きよめば)などと称しており、例えば山下・西構・栄・東用・萩原・真砂・河内市場などであった。したがって製革業といっても最初は旦那場単位の死牛馬の処理をこえるものではなかった。しかし18世紀になってくると、原皮を他所から買い入れ、あるいは大坂渡辺村からの馬皮の加工をする形で規模が広まっていったとみられる。
また、誉地区の場合は、次のように行われていた。江戸後期皮鞣しが盛んであったのは、門前(現在の松原)、広山(現在の誉)であり、寛政から文化中期にかけては鳥取藩内の原皮を仕入れ始めた。文化・文政期はこれら村々の皮革業の全盛期であった。天保期に入ると全国諸藩は皮革用原皮に目を付け、専売制をとったり統制を強化し始め、特定人を通じてでなければ原皮は販売されず、これら諸藩の上層まで話のつけられない揖龍の村々は原皮の入手に行き詰まった。
明治時代以降は、張生地の製造が矢張り中心となっていた。これは姫路白鞣革の製法と基本的にはほとんど同じであるが、色相はあまり白くなく、硬目のものであった.張生地は漆を塗って製品に仕上げるものが主体であって、室津や姫路に出荷し、たばこ入れ、下駄向皮(げたのつまかわ)、文箱などになった。
また生革(きがわ)(ビッカー)も作られた。原料は水牛皮で、主として東南アジアから原皮を輸入し、紡績用や剣道の竹刀の鍔(つば)などに加工された。クロム鞣革の技術は昭和の初めに入ってきたという。当時、中嶋治一が大阪の西山へクロム鞣技術を見習にいき、技師となって瀬戸高矩の工場で共同で研究開発したことが松原に広まり、現在に至った。
なお、室津の革細工について、松原地区で集約した記録では次のように記している。
● たばこ入れ
腰に下げるたばこ入れは、煙筒(キセル)を入れる筒で止める「腰差したばこ入れ」と、根付で止める「提げたばこ入れ」の2種類に大別できる。室津から出荷されていたたばこ入れは、「サゲ」と呼ばれた叺(かます)だけのものと、「井筒組」と呼ばれた革のついたものが主であった。
● 革文庫
文庫は、書籍その他手回り品なども入れる手箱である。木や紙に漆を塗ったものが古くからあったが、室町時代に皮革業の発達により、革を貼ったものが作られるようになった。
● 向革(爪皮)
下駄の爪先に掛けて雨水や泥はねを防ぐための覆いで、材料に松原の張生地を多く用いた。江戸末期ごろから世に出はじめ、もとは男子だけが用いた。向皮は関西での呼び名である。その製作工程の簡単さと利益率の良さで、室津では明治・大正・昭和とかけて、その量はたばこ入れを上まわった。
● 金唐革(きんからがわ)
革に金属箔(主に銀箔)を張り、模様をプレスした上に彩色をほどこしたもので、ヨーロッパで壁や調度品の装飾に使用した。17世紀ごろからオランダを通じて日本に伝えられ、その金色と特異な意匠のために大いに珍重された。輸入品のうえに高価なこともあって、日本では壁に張られたことはほとんどなく、たばこ入れなどの工芸品に使われた。この金唐革の模造品を室津で造っていたという。しかも光沢は本物以上で、張生地に漆を塗り、その上に金箔をはり、更に漆を塗ったものがその金唐革だという。その材料である張生地は1年間で4,000枚内外扱われたが、その内7分は松原より、他3分を袋尻・広山・沢田より納めていた。
室津革細工所と原皮供給の松原村との問に、必ずここから買うように権力によるルートが設定され、松原の皮革業者にとっても「抜売抜買」がないよう要求していた。
[川西地方](火打)
詳細な記録はわからないが、地元に伝えられている話として、次のようにまとめられる。
川西地区では、慶長8年(1603)、徳川家康が宮中参賀に向うにあたり、火打の役人に命じて絆綱(たづな)および鞣革の用達を命じたといわれている。つまりその頃にはかなりの皮なめしを行う人たちがいたものと思われる。また、寛永の頃になって播磨の住人西森某がこの地に来て、製革の有利なることを力説、村民に当業の普及をはかったといわれる。しかし、元禄8年(1695)の記録には、皮革生産はまだ小規模であったという。
江戸時代末期の元治・慶応の頃、原料は西浜と呼ばれた渡辺村より購入し、綴革(とじかわ)と呼ばれる白鞣革を製造していた。綴革は革紐、鎧 具、刀剣の柄巻、さや巻、剣道具、細工用革、塗革用等に大阪、姫路などに売られた。また革羽織や革袴、草履用等にも白鞣のうすいもの(明バン<竓)を使用して作られていた。原料は馬皮牛皮が主であった。
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